2018年4月23日月曜日

クロ現、道徳の教科化を見て感じた同質性の強調について

実際の学校現場での様子や先生の試行錯誤の様子が色々と映し出されていて勉強になった。で、思ったことをワーッと雑文でまとめてみました。

【1つの規範ってのはないことの方が多い】

道徳の教科化の目的として、いじめといじめによる自殺を減らすことがあると。いじめは規範の話ではなくもはや犯罪だという話ではないのかなと。
そして、家族愛もそうだし、ルールを守ることもそうだし、1つの規範に落とし込むことってできるのかなと。というか、それが必要なのか考えさせられる。

教科として教えるべき規範があるんだろうが、せっかく生徒が発言し対話する授業。ゴールに落とし込むためににならないようにということが先生は大変そう。
ただでさえ、生徒は答えに気づき、ある種空気を読んだ発言をしがちなので。

「ルールは守ったほうがいいよね」という規範があるんだろうが、「ルールは変えたほうがいいよね」「ルールをいたずらに守って損をするよね」というタイミングもあるわけでさ。
また、俺自身の文脈で言うと、政治の中で与野党問わず、
「正義」「民意」といった唯一無二では決してないものを、唯一無二として扱って相手への攻撃材料に使っていることも大いに気になる。

【1つの規範からの同質性による他者の排除】

すこし話が変わるが、同質性や1つの規範の文脈で、俺が半分冗談で、良くいう話がある。
「1年生になったら友達100人」を作ろうって歌うからダメなんだと。
全員と友達になろうとするから同質性が強調されて、少しでもそこから外れた少数を排除してしまおうとする。仮にクラスが35人いたとすれば35人はある組織の構成員であって、友達たる必要はないと思う。構成員として協力すること、ルールを守ることは色々とやる必要がある。でも、友達として全員が仲良く横並びになる必要はない。

【そして大人が作り上げた政治との関わりの同質性の、子どもへの影響】

そして、同じような話で、主権者教育出前授業を中高で実施させてもらうときに、見かける光景がある。
なにかの質問や意見を生徒に投げかけたときに、普段から政治のニュースなどを良く見ていて、そういう話が好きであろう生徒が誇らしげに話してくれる。現在の政治のニュースや議論について立て板に水のごとく話す。
しかし、その場に出くわした周りの生徒が笑っちゃう。苦笑というか失笑というか。「あいつまた長々話しだしたよ」という雰囲気も感じられる。
いわゆる大学生や大人で言うとこの「意識高い系(笑)」みたいな感覚なんだと思う。
おれはそのシーンがすごく苦手。発言してくれた学生を本気でほめるし、すごい事だという。
それは政治の話をしているからすごい、というわけではない。その生徒が1つの特技というか特徴があるということへの称賛。政治の授業だったので、その人の独自性が活きた。
仮にサッカーの授業であったら、サッカーがうまい独自性のある生徒がいるんだろう。サッカーでめちゃドリブルがうまくてパスがうまくてシュートうまいクラスメイトがいたらみんな「すげー」っていうんじゃないかな。時には多少の悔しさもあるかもしれないけど、失笑はしないだろう。
じゃあなんで政治のことを語る生徒と、サッカーがうまい生徒に対しての反応が違うのか。それは社会全体が、というか大人が反応が違うからだろうな。子どもは大人の空気を読んでいる。「サッカーはすごい!政治はだめだ。」という社会の空気感!?

「政治の話はしないほうがいい」「どうせ政治なんか」という感じの大人が多いのかな。また、「すごい」「かっこいい」というべき対象として政治がないのかな。
政治参画に関して、大人を変えないと社会は変らないと思うし、同時に大人は変らないから子どもを育てていくリバース教育も必要なのかなとも。

【最後に】

何が言いたいのかまとまらず徒然に書いてしまいましたが。
色々と道徳の教科化を見て、なんとなく民主主義の在り方。一人一人が主役な社会の在り方や教育にまで色々と考えが散ったので、それを雑文でまとめてみました。


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